市民・文化観光・消防委員会行政視察報告 その2<広島土砂災害>

IMG_0360◆2日目午後
新幹線で福岡を後にし、カープ優勝に湧く広島へ。
もうあれから2年。2014年8月に発生した集中豪雨による大規模な土砂災害について、現地視察と当時の消防の対応状況などを伺いました。
広島土砂災害では、被災場所は、阿武山の麓、安佐南区、安佐北区に集中し、死者74人、負傷者69人。全壊179棟を含む4749棟に物的被害が及ぶ、非常に痛ましい災害でした。
その災害の最前線にあった安佐南消防署で、当時一番最初に災害現場に駆けつけた勝田課長から、お話を伺うことができました。
2014年8月19日。上空では、停滞前線と南西からの暖かく湿った空気と太平洋高気圧による西側からの湿った空気が流れ込み、局地的な集中豪雨をもたらしたとされています。安佐南区と安佐北区上空では、20日未明から降り出した雨は、午前2時から4時のわずか2時間で200mmを超える猛烈なものとなりました。非常に局地的だったため、数キロ離れると、雨も降っていない場所もあり、このような災害が起きているなど、想像していなかったと言うほどです。
午前3時半、無数の雷が発生し、落雷により停電。消防では、用水路からの出水の報を受け、状況確認に出かけた勝田課長らは、深夜の暗闇の中、辺りの状況が掴めないまま、水と土砂に阻まれ現場に近づくことすら出来なかったそうです。被災現場に通じる道は少ない上に狭く、そういったことも一層状況を悪化させていたようです。
土石流は、暗闇の中、阿武山の扇状地に形成された住宅地を幾度も襲い、大量の瓦礫と共に、多くの人家を飲み込んでいきました。
早朝5時、日が昇り、ようやく辺りの状況が見えるようになった時の驚きを、課長は、「目を覆うことすら出来ない状況」と話してくれました。津波のように瓦礫が押し寄せ、重機が被災現場に入れたのは、なんと発災から1週間も後のことです。

白いコンクリート塀が防砂堤防。 手前には献花台がありました。

白いコンクリート塀が防砂堤防。
手前には献花台がありました。


一番被害の大きかった八木地区を視察しました。現地に行く道すがら、電柱に生々しく残る水の跡は、私の頭上よりはるか上にありました。
災害死者数の半数以上41人がここで犠牲になっています。報道で、幾度も目にした県営住宅がある地区です。県営住宅は、かろうじて建物は残りました。県営住宅を両側に挟んだ土砂が流れ込んだ地域は新たに造成され、山側には防砂堤防が築かれていました。下流側には既に新しい家が建っているのも見受けられましたが、上流側はぽっかりと空き地です。この土地がどのようになるのかは分かりませんが、その場に立って、そこ一帯に住んでいた人は、全てお亡くなりになっている。と聞き、呆然としました。
山の中腹に見える、防砂堤防が、果たして次の災害を防いでくれるのか…私には心許なく感じました。
右の茶色い建物が県営住宅

右の茶色い建物が県営住宅


この地域は、実は過去にも幾度と土石流災害を被った地区だったそうです。いつの間にか過去の教訓が忘れ去られて、新しい住宅が建設されました。しかし、県営住宅が残ったのは、建物が鉄筋コンクリート造だったこともありますが、ちょうど土石流の流れの両側に位置するように建てられており、何らか災害地を避けたようにも見えました。
安佐北区では、救助中に2次災害に巻き込まれ、救助作業中の消防隊員と小さな子どもも命を落としています。
今回の災害では、避難勧告の遅れへの指摘も多くなされていたようでしたが、実際には、あまりの集中的で激しい豪雨の中、避難をすることにも危険を伴う。とても避難ができるような状況ではなかった。残るのも避難するのも危険。という緊迫した状況に置かれていたという現実もあったようでした。では、どうこの災害の教訓を生かすのか。やはり、予防的見地に立って、今の環境を災害を想定して見直していくしかないのではないかと思いました。
説明する勝田課長

説明する勝田課長


勝田課長は、長野県南木曽町にある「蛇ぬけの碑」にヒントがあったと教えてくれました。
・白い雨が降ると抜ける
白い雨=辺りが真っ白に見えるほどの雨
・尾先 谷口 宮の前
宮の前=社は無傷だが、参道はどこも被災した
・雨に風が加わると危ない
・長雨後、谷の水が急に止まったらぬける
・蛇ぬけの水は黒い
たしかに黒かった
・蛇ぬけの前には、きな臭い匂いがする
多くの人が、匂いについて証言しているという
2度とこのような災害が起きないことを願いますが、自然災害は、いつも私たちの想定を超えてやってきます。被災された人の経験が、次に生かされるよう手を尽くさなければならないと感じました。
自由時間に平和記念公園までダッシュ!原爆ドームだけはなんとか目に焼き付けて戻りました。