ピースリングツアー<横浜・横須賀編>その1

横浜ノース・ドックのゲート。埠頭から見る港の景色はまさに一頭地


4月21日神奈川県の基地を巡るピースリングツアー<横浜・横須賀編>を開催しました。
私も、市民ガイドとして横浜のガイドを担当しました。
1月に開催した県央編レポートはこちら
県内には12の米軍基地が点在しています。そのうち横浜市には6区に4箇所の米軍施設と、2箇所の水域があります。
その内訳は、鶴見貯油施設、横浜ノース・ドッグ、根岸住宅地区、逗子市と横浜市にまたがる池子住宅地区及び海軍補助施設で、土地面積の合計は、150ha。
水域は、小柴水域とノースドッグ水域で、合計52haとなっています。
第二次大戦後、横浜市は、広範囲にわたり米軍に接収され、最大でその広さは1200haにも及びました。ようやく戦後60年にあたる2005年の小柴貯油施設の返還を皮切りに横浜開港150周年の2009年にノースドッグの一部、富岡倉庫地区、2014年に深谷通信所、2015年に上瀬谷通信施設の返還が実現しています。
まず最初に訪れたのは、瑞穂埠頭にある横浜ノースドッグ。裏みなとみらいとも言える、港ヨコハマの一等地を占める米軍の専用埠頭です。同じ埠頭内に横浜のシンボルのひとつ「浜ウィング」もあります。この日はゲートに人影も見えずひっそりとしていました。
相模補給廠への玄関口として、現在でも機能しているノースドッグですが、1972年、ベトナム戦争時には、軍事資材や修理された戦車が行き来をしていたそうです。ノースドッグの進入路にかかる村雨橋を舞台に世に言う「戦車闘争」が繰り広げられました。当時の横浜の飛鳥田市長は、道路交通法違反として、戦車の通行を規制しました。それに対し、国は道路交通法を改訂することでこれを回避、事態は村雨橋での座り込み等の実力行使に発展します。その際には、市民と共に横浜市の職員が派遣され、この闘争に参加したそうです。
3ヶ月にわたり、戦車は止まりましたが、国は安保条約を盾に、村雨橋を突破、多くの逮捕者を出して、結局戦車は動き出すこととなりました。
今でも、このノースドックは様々な軍の資材の玄関口であることに変わりはありません。
近年では、2013年3月に燃料漏れも起きています。

地上からは見えませんでしたが、グーグルマップで見た航空写真には、丸いタンクが確認できます。


続いて、訪れたのは、小柴貯油施設跡地です。
この施設は、約52ha横浜スタジアムの約20個分の敷地に、34基のタンクがあり、航空機燃料が備蓄されていました。また海上には、制限水域が設けられ、パイプラインが敷設され、陸地とつなげられていました。
この小柴貯油施設では、1981年10月にタンクの爆発事故が起きています。3人が負傷、350棟の建物被害を引き起こし、隣接した小学校では、教室の窓ガラスが割れるなどの被害が出ています。横浜市消防局と米軍消防隊と共同で消火作業が行われましたが、横浜市消防局が原因調査に立ち入りを許可されたのは、98日後、原因の究明には到底至らなかったとのことです。
2005年に陸地部分と水域の一部が返還をされています。ちなみに、現在でも水域の42haは、制限水域のままです。
2014年国有地の無償貸し付けという形で、跡地を公園にするの基本計画が策定されています。
しかし、貯油施設ということで土壌汚染も確認をされており、今後も継続した調査が必要です。
参加者の中には当時お子さんが近隣の小学校で窓ガラスが割れた経験を持つ人、通っていた学校の窓から黒煙が立ち上るのを見たという人がいました。
近年、少しづつ施設の返還が進んでいますが、これまでの周辺住民の負担は、非常に厳しいものでした。2015年に返還された上瀬谷通信施設では、米軍の受信障害を防止するため、施設周辺では機器の使用や建物の建築が厳しく制限をされていました。この電波障害防止制限は1995年まで続き、長年にわたり、市民生活の負担となっていました。
また、横浜は、厚木基地への空路となっており、1977年現在の青葉区では、米軍ジェット機の墜落事故が起きています。子供2人と母親が死亡、6人が負傷した悲惨な事故でした。青葉区で暮らす身としては、決して忘れることのない出来事です。「パパママバイバイ」という絵本やアニメーション映画にもなり、港の見える丘公園には「愛の母子像」として記念碑が建てられていますが、この像がこの事故の記念碑であることが明記された碑文を設置するまでにはなんと21年の歳月がかかりました。
この事故を中学校の窓から目撃した方も参加していました。
基地があることは、実際の弊害に加え、多くの人の心に暗い影を落とす事故の可能性をも受け入れなければならない。ということを、実感しました。