ピースリングツアー<横浜・横須賀編>その2
4月21日のピースリングツアー。
横浜に続いて一行は、横須賀港へ。
ヨコスカ平和船団の方のガイドのもと、船に乗り込み、海から基地を見ました。
海上自衛隊のイージス艦が並び、間近で見る護衛艦は、かなりの迫力。
海沿いの一角には「浦郷弾薬庫」があります。弾薬があることを示す赤い旗、貯蔵できる武器の危険度を示す表示が、一気に現実味を帯びて見えます。ここには、様々なミサイルから弾薬が貯蔵されています。その中には劣化ウラン弾等が含まれる可能性も否定できないといいます。私たちが暮らす身近に危険物があるということ。改めて恐ろしくなりました。
現在、横須賀を母港とする米軍艦船は13隻。原子力空母ロナルド・レーガンは、現在メンテナンス中で、イージス艦の向こうに巨大なその姿が見えました。核を持つ原子力空母が生活のそばにあり、私たちのコントロールの外にある。ということは、大きな不安です。
朝鮮半島情勢などで、イージス艦、空母といった姿を報道で目にする機会も多くなりましたが、この横須賀では、いつもの風景です。しかしたまに訪れる身としては、長閑な海辺の情景と軍艦のコントラストは、非日常のショッキングな眺めです。
街中では、凶悪な殺人事件も発生しており、横須賀が長く背負わされた軍港としての宿命から解かれる日が、一日も早く訪れることを願います。
池子住宅地区及び海軍補助施設は、逗子市と横浜市にまたがる290ha、その87%が逗子市に位置しています。
逗子市議の根本さんのガイドで、池子の基地周辺を見学しました。
池子の森は首都圏に奇跡的に残った貴重な自然生態系をもつ豊かな森です。この基地施設ができる前は、旧日本帝国軍の弾薬庫です。終戦後、米軍の弾薬庫となり、朝鮮戦争の間絶え間なく弾薬の出し入れが行われていました。1977年弾薬が空になり、誰もが返還の日を現実に意識する中、金丸・ブラウン会議で思いやり予算が具体化されました。1984年池子の米軍住宅建設要請を受けて、当時の三島市長は、条件付きで住宅建設を容認。その結果市長はリコール、反対運動が支持する富野市長が誕生します。しかし、その状況下で「池子弾薬庫」は「池子住宅地区及び海軍補助施設」と名前を変え、1987年から住宅建設が開始をされました。1998年に837戸米軍家族3184人の入居が完了しています。
1997年、国は42haの返還と運動施設の使用を条件に横浜市域側に800戸の追加建設を承認しました。幾度も協議が重ねられ、2014年3階建て385戸の住宅建設ということで、計画がされています。
2012年、国は逗子市に公園敷地として無償貸付を決定、40haの共同使用が開始されました。しかし多額のランニングコストを自治体に負担させており、毎年5000万もの経費が発生することになりました。また、3億3千万の公園整備初期費用も逗子市が負担しています。
池子海軍補助施設は逗子市域の14%を占め、5万8000人という人口の町に総人口の5%を超える3000人の外国軍人が地位協定を基に法的特権をもって居住している現状が今も続いています。
神奈川県は、沖縄に次ぐ第2の基地県であることは、こうして実際に目で見て、実感することができます。
市民がツアーのガイドとなり、その役目を代わり合うことは、歴史を語り継ぐことに繋がります。
これからも「見て、感じる」ツアーを続けていく意義を感じた一日でした。